頭のネジが斜めに入っているので、自分の認知の歪みに気付くことがなかなか出来ず、今まで色々な人間関係を歪めていたグリコール・グリコです。
モノと自分の関係は『フラクタル』(自己相似の関係)、現在は空間とともに自分の気持ちもスッキリしてきました。(ほっ)
ずっとこの記事を途中で放っていたのですが『真由美』様からコメントを頂きましたので、改めて自分はこうして自分の認知の歪みを矯正しつつあるよ、、と言うことを書くことにしました。
自分の認知の歪みを知るきっかけは?
ちょっとしたことでイライラ、夫とも仲良くしたいのに何故か一人プンプン。
不機嫌6割、笑顔2.5割、その他の1.5割は自己否定祭り。
最初はこのイライラ不機嫌の根っこの原因追求ばかりしていましたが、この本によってあ〜そうだったのか、、と気づきを得ました。
最初は不仲だった両親との関係にフォーカスしていた
実母は”グリコの考えていることはなんでもわかる”
”グリコはいい子”と自分の愛情をごり押ししてきた。
実母自身は気づかなかったかもしれないけれど、それは愛情ではなく、愛着。
父親とうまくいっていなかった分、私を頼りにして、私も頼られることを生きがいにして、”長女だから私がしっかりしなければ!”と頑張っていたけれど、それは親の期待に答えることで自分を認めてもらう行為で、それがいつの間にか承認欲求に肥大化していった。
だから人に気を使うことが多かったし、気を使う割りに相手の反応が薄いと怒ったりしていた。
ここまでは『原因は親にある』で終わり。
確かにベースはそうなんだけれど、自分の認知の歪みを放っておいて、親のせいにして終わりでは前に進まない。
それはそれ、これはこれ。
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人の課題を自分の課題としてなんでも首を突っ込んでは自分の思う通りにならないと怒っていた自分に気付く
以前は夫のする事がなんでも気に触ることがあって、そのイライラを止めることができませんでした。
ちょっとした事、例えば服選び、食事の準備、今思えば何でもダメ出しをしていたと思います。
『え、何でコレ選ぶの?!』
『あ、それは違う、こっちのものを使ってってば!』
引いて考えれば、それを選ぶ、それを行う理由がちゃんとあるのにわかろうともせず、ひたすら『自分の正義の物差し』を振り回していただけ。
自分が正しいの一点張りで、相手に対する想像力が欠如していた。
と言うことが「嫌われる勇気」を読んで気がついた事。
また、相手が考えるべき問題(課題)なのに、『パートナー(妻)だから(なんとかしなきゃ)、娘だから(アドバイスしなきゃ)』と必要以上に口出しをしたり、手を貸そうとしていた。
該当者はそれを望んでいなかったかもしれないのに。
人は言う、それを『おせっかい』と。。。
家族のことだけに、口を挟むのは家族のため、と思っていた節、大いにあり。
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本人を心配しているのではなく、気持ちは自分。
自分がこう有りたい形に家族を誘導しているのでは?
自分が安心したいからそのように導いているだけなのでは?
自分が納得したいからあれこれ口を挟んでいただけなのでは?
自分が正しい、それが大前提で相手の行為をよく観察せずに決めつけて指示を出していたのでは?
ぜーんぶ相手の課題に土足で足を踏み込んでいる自分がいた。
結局私の行為は自分が満足したいからなんだ、ということに行き着きました。。
ヤバイよ、自分。。。
この↑『想いの宛先』も自分が満足したいから、だったのかも。
合点が行くわ。
↑この話がここにも繋がっていくってわけか。
相手の課題に踏み込まず、ちょっと引いてみる、先回りしてわたしが背負うことはないんだ、、
先日、義理兄ファミリーが来ました。私にとってこのファミリーはちょっと苦手。
今まで夫の兄だから、、と食べない料理を準備し、車で来る時は気を利かして我が家の車を動かして入れられるようにしていました。
でも、ありがとうでもいつもすまないの一言もなし。
でもその私の行為こそ、他人の課題に踏み込むものだったんだと解りました。
”甥っ子1は来れないってさ”と聞けば
”へぇ、別に会いたくもないから(これはちょっと余計だったかも)いいよ”(フラットに言う)
”何にも用意しなくていいってさ”と聞けば
”うん、用意しないよ”
”そうもいかないだろう”と言われれば
”じゃぁ、あなたがどうぞ〜”(これも嫌味ったらしく言わず、さらっとかわす)
そう対応しても夫は別に腹も立てず淡々と自分のすべきと思われる課題(義理兄対応の準備)をしていました。
当日、私がお茶を入れている間に、自分でケーキを配膳して出していました。
なんだそれでいいじゃん!
車の場所のことは私もすっかり忘れていたので何にも言わなかったのですが、義理兄が自分で近くのコインパーキングに車を入れてきたとの事。
なんだそれでいいじゃん!
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること、によって引き起こされます
嫌われる勇気P140より抜粋
話が途切れがちになるのでファシリテーター役には回ったものの、はらわた煮え返るわ!と不愉快極まりない時間にはならず、夫との関係も嫌な雰囲気にならずに済みました。
なんだ、何をつまづいていたんだろう?私。。
誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。『その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?』
嫌われる勇気P141より抜粋
義理兄の訪問の対応は私の課題ではない。
甥っ子2の成人のお祝いの祝い袋だって、本当は先回りして私が用意する必要もなかったんだ(夫が自分で買って来ていたのが明らかな証拠、、)。
ちょっと油断すると『課題の分離』を忘れてしまうな〜、しっかりしろ私。
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まだまだ詰めが甘い私だけけれど、これからも振り返る、『これは誰の課題なのか?』と。
放任や放棄でもなく、見守ることはとっても難しいです。
私はクレバーではないので、つい口を出しがちだし、気がきくと思って欲しいから先回りもしがちです。
『これは誰の課題か?』と一呼吸おく軌道修正はこれからも続けていくことになるでしょう。
人生をシンプルなものにする第一歩は?
最後にこの言葉を引用させていただきます。
他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます。もしも人生に悩み苦しんでいるとしたらーその悩みは対人関係なのですからー先ずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩です。
嫌われる勇気P146より抜粋
真由美様、『課題の分離』私の説明で伝わったでしょうか?
家族の関わりの中で色々気付きを得ます。コチラも↓
こころとの対話。
両親は良いモデルではなかったけれど、そこから学ぶことはあります。
コメント
コメント一覧 (2件)
グリコールグリコさん、こんにちは。
ありがとうございます、良かったです。軽くなったというか、、
相手の問題にあまり土足で踏み込まないように、、
当たり前ですが結構難しい時もありますね。よく「あなたの為をおもって、、」
なんてよく言う人いますよね。
今度息子が結婚するので姑(私は息子二人です)になります。
お嫁さんとお母さんを見ながら私は本当線をひいて付き合わなければ
あまり干渉しないように(もともと息子は早くに独立してかなり距離は置いていたのですが)
と心に決めました。それにグリコールさんは相手に期待しなければあまり寂しいということは
ない、という感じで書いておられましたね。それももっともだと思います。
50を過ぎて(今頃?)気づくなんて..人からどう思われるかとか嫌われたくないとか。。
疲れは今頃でてくるのかななんて、真面目なのか小心者なのか結構プライドが高いのかもしれません。
でも今からはできれば自然体に近い方が楽だなあと思うようになりました。
ありがとうございました。
こんにちは、真由美様。ご子息ご結婚おめでとう御座います。
懐かしい、”貴方の為を思って”のセリフ。あはは。
私こそ、ぐるっと曲がりくねった回り道をしています。まだまだ大人になり切れていませんよ〜(汗)
お互いに自分を真に自立させたいですね〜。
無理なくシンプルに境界線を引いて暮らせるといいですねV