処理水の風評被害を受けている東北。海産物を食べに福島・宮城に行って来ました。そして震災遺構をどうしてもこの目で見たかったので浪江町の請戸小学校に足を運びました。
知っておきたい福島・宮城の今
わたしの中で東日本大震災は一生記憶に残る出来事です。
今は処理水放出で揺れている福島。
元を正せば原子力発電で作られた電気の一部は自分達が使わせてもらっていたもの、と思うと後ろ暗い気持ちになります。。
そんな思いもあり、せめて『知ること』が自分に出来ることと思い、震災以降なんどか足を運んでいます。
今回は海産物三昧がメインでしたが、やはりわたしのこころに刺さったのは震災遺構だったのでそこに焦点を当てたいと思います。
(もちろん魚介はうまうまでした!!!)
ひたち1号でいわきへそこからレンタカーで四倉・双葉・浪江・南相馬
着物イベントの翌日朝、品川からひたち1号に乗っていわきへ。
いわきは駅前にタワマン(免震)が建設中でした。
時間の流れを感じました。。
レンタカーを借り、道の駅が好きなので四倉・双葉・浪江・南相馬の道の駅に寄りました。
丁度祝日ということもあり、どの道の駅も賑わっていましたよ。
特に道の駅なみえは駐車場も広くたくさんの人が来ていました。
海鮮丼は大人気でした!
お目当ての一番人気海鮮丼は売り切れてしまい、「うけ丼」(しらす・いくら・鮭)を食しました。
道の駅に『MUJI』が入っていてびっくり。
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震災遺構 浪江町立請戸小学校
道の駅なみえから双葉町へ南下するかたちで浪江町立請戸小学校に向かいました。
海から300mという近さです。
風の音がするものの、周囲は人の気配がないです。
そこに小学校が当時のままそっくり残っています。
震災遺構浪江町立請戸小学校 入館料大人300円です。(休館日毎週火曜)
校舎には津波到達点の表示があります。
請戸地区の津波到達の高さは15m以上。
ぐるりと校舎を内側・外側から見ることが出来ます。
10年以上経った今でも津波の爪痕は生々しく、無言で回りました。
防災無線が大津波警報の発令を知らせる中、校舎には下校した1年生11人を除く、2年生から6年生までの児童82人が残っていました。
震災遺構浪江町立請戸小学校HP 請戸小学校とはより引用抜粋
あともうちょっとで卒業式の時。
きっと卒業式の歌の練習や飾り付けで残っていたのでしょう。(体育館は卒業証書授与式の看板がそのまま)
そこに大きな地震。
南関東でも結構な揺れでしたからとてもこわかったと思います。
果たして自分だったら避難出来たのか?自分ごとで捉えてみる
幸い全員が大平山に避難出来、学校にいた全員が助かりました。
教職員はすぐに児童に対し避難を促し、避難場所に指定されている学校から約1.5キロメートル離れた大平山を目指しました。
震災遺構浪江町立請戸小学校HP 請戸小学校とはより引用抜粋
たとえば、わたしが新任で請戸に来たとイメージしてみる。
2Fから海が見えるし、「山育ちなので海は憧れでした♡」なんていってるでしょう。
そこで地震がきても『学校にいれば安全』と思ってたぶん動かないのではないでしょうか。
だってね、避難先の大平山は1キロ以上先なのです。
学校から見える山だけれどちょっと遠いのです。
もしわたしがそこにいたら山に避難という判断が出来たのかな?
正直気持ちが揺れました。
40分後に津波が到達するわけですが写真のとおり1Fは壊滅です。
そして水の力の凄さに絶句。
もし1Fやグランドで親御さんが来るのを待っていたらと思うと胸がジンジンして来ました。
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震災遺構は正直ショックだった けれど『知る』ことは大切
震災遺構を見学、、というのは不謹慎なようでずっとためらいがありました。
また「残す側」にもためらいや反対があったと思います。
しかしこのように「後世のためにあえて残す」という決断をした「請戸地区」の方々の気持ちは強く伝わりました。
そんなメッセージをもらった気がします。
他にも写真をとったのですが、やはり現地にいって海からの距離、波の破壊力などを自分の目で確認してほしいな〜と思い沢山記事に載せるのはやめにしました。
震災遺構関連はそのほかにもあります。
自分がこの現場にいたらどうする?と考えるきっかけにもなりますので、気になったら足を運んでください。
その後レンタカーを原ノ町で返して電車で仙台に向かい、夜に寿司をいただき、昼にまたまた寿司、そして帰りは牛タン弁当を買って新幹線で帰る旅でした。(食べてばっかり)
そんな東北の旅でしたがあえて震災遺構をトリミングしてアップしました。
思えば震災をきっかけに人生の片付けを始めたグリコです。
3.11は人生のターニングポイント、忘れかけたらまた戻ってくる。
本日も最後までお読みくださりありがとうございました。
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