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親の家は片付いた2 婚家の異変と決断

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こんにちは、「暮らしをより良く」と暮らしのアップデートを心がけているグリコール・グリコです。婚家の異変はトイレ掃除をキッカケに何かが動いた時でした。

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目次

大丈夫よという義理母

仕事を辞めてから1Wに一回は掃除や様子伺いに婚家に通っていました。
(この時点で老老介護の二人は生活支援が1Wに2回、夫婦で1Wに2回ディサービスに通っており、うちの両親に較べて、実に手が掛からない老人でした。
しかし老老介護で悠々自適に暮らしていた義理両親でしたが、少しずつ「異変」が起きていたのです。

夏に訪問すると暑いのに締め切りの部屋でぼんやりと座っている義理母。クーラーを使っているのかと尋ねると、”クーラーは28度を超えると使っている”という。「大丈夫よ、平気」が口癖。

その時期あたりから婚家に行くとトイレの敷物がなぜかじっとりと濡れていた。(今思い返すとこの辺りから義理父はトイレが間に合わないことが多くなっていたのだと推測される。)

また義理父は車を擦ることが度々出始めていたものの、我々には隠していた。(当時は運転免許証の返納などプライドが許さなかったのだと思う。)しかしその頃からゆっくり認知症は出始めていたのかも、、しれない。

震災が来る前年の晩夏に義理母が倒れて急遽入院という騒ぎがありました。
義理父は一人では何も出来なくて、何かあるとわたしに電話をしてくるのが常になっていました。

”おばあちゃんが倒れたので来て欲しい、”と言われれば入院先の病院に駆けつけるのがわたしの役目。
入院した義理母は意識不明で、私は病室のベランダから夜の海に月が照っている景色をぼんやりと眺めるしかありませんでした。

転院をして意識を取り戻した本人から、『足元に尼僧が座っていたの。綺麗なお花畑を見たのよ』とベタな臨死体験を聞かされて、”三途の川を渡り損ねたねぇ〜”と笑い話になる程でした。

そして義理両親の暮らしはこの入院騒ぎをキッカケに少しずつ変えて行かざるおえなくなりました。


まず食事を給食サービスに変え、義理母がなるべく台所に立たなくてもいいように話を進め、私の通いも1W1回から2回へと回数が増えていきました。

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東日本大震災が老々暮らしに影を落とす

そんな心もとない老老暮らしの翌年に「東日本大震災」に遭遇。
直接の被害はなかったものの停電&電話が繋がらず、義理両親に会いに行けたのが震災から五日程した頃だったと思います。
訪問すると義理父が”助かった〜やっと来てくれた”という顔で迎えてくれました。

義理父は義理母が入院してからは特に気弱になり、「老々暮らし」の先を案じるようになっていたので震災のショックは大きかった様です。

停電時にお皿に立てた仏壇用のロウソクの残骸を見た時、老々の侘しさを物語っているようで胸がギュッとなりました。

それを見て『孤独死老夫婦死後〇〇日に発見』なぞという新聞の見出しが頭をよぎり、このままではヤバいと感じました。

”とにかく二人きりはもう無理そうだ。”

俳句も「病葉の」などの言葉が増えはじめ、こころの翳りがみえる句が続くようになった時期でもありました。

自分の実家を処分する決意をする

あまりにうら寂しい二人の姿を直に見て、「もう、二人だけの生活は無理なんじゃないかな?近くに住むか一緒に住むか何らかの方法を考えないと。」と夫に切り出しました。
「・・・そうだな。・・・でもこの家もあるし。」
「・・・処分・・してもいいかも。。」
「え?いいの?ぐりちゃん?自分の親の家だよ」
「うん・・・なんかいいかも。ってか手放す。なんかどうでもよくなった。」
「ええ?!」

震災の津波の映像をリアルタイムで見た私はこの時ガツンと転換期を迎えたのだと思います。

「コレは私のもの、といったところで死んだら何一つ持って行かれない。まして天災には抗いようも無い。親の残した家と土地ではあるものの、両親は両親。私は私。うっかり住んでいるだけだし、、執着してもしょうがないよ、、、」

私にとって『家を手放す』=実質的に実両親との最終決別となり、実家のあれこれのおわりと同時にこれからの生活のはじまりの幕開けでした。

また、これからの老老暮らしの不安(漠然とした恐怖のようなもの)を抱えていた義理父は、息子夫婦からの同居の提案に安堵し、快諾をしてくれました。

そのあと色々な選択肢があったものの結果的に実家を売却し、新しい土地を探してそこに義理両親と同居する為の家を立てることになりました。
そして家を建てるまでの間、実家→婚家→新居、と短期間の間に二回引越しをすることになったのです。

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新しい生活に向けて自分たちの持ち物を精査するも

我々の持ち物で処分したものは、実家で使っていた食卓テーブル、椅子、ソファー、冷蔵庫、洗濯機、お米ストッカーのついた電子レンジ置き台、電子レンジ二台。書籍、外物置二つ。(もちろん中身も)
この時点で毎週末に市のリサイクルセンターに来るまで不要物を運ぶ、ということを始めました。
それでも何だか荷物が多く、

「無理だな、荷物が(婚家)に入り切らない。。」

とボソッと夫がつぶやきました。


引越しを決めて余裕を持って始めたつもりでしたが、いざとなると踏ん切りがつかないものがあり、何だか整理のつかない諸々、、、をひたすら段ボールに名称をつけて封印することとなりました。

この時点では全然モノの精査力が弱かった、、と後になって判るのですが、、、

仕方がないので引越し屋さんの一時預かりを頼み、当面必要のないエアコン3台、食器類、冬物衣類、書籍、雑多なもの(なんだったかは忘却)を預けることにしました。

一時預かりは青、婚家に運び込む段ボールは赤の○シールを付けて判りやすいようにし、引越しまでひたすら実家の1Fの日本間に積んでいったのは懐かしい思い出です。(遠い目)

さて義理両親は我々が来る事は想像できたものの、荷物が一緒に入って来ると困惑の色を隠せませんでした。

あちこちに段ボール箱が置かれ、まさにぎうぎう状態での同居が始まりました。

そしてそこから今度は『婚家の要らないモノを処分する」という途方もないプロジェクトが始まったのでした。

まだ続きます。

さ、参加してたりします。。

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