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【映画「国宝」レビュー】凡人が「うわぁ〜!」となった見どころを深掘り!血筋、才能、そして「手放す」ことの業

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映画「国宝」

映画「国宝」。多くの方がとても素敵で高貴なレビューを書いているので正直書きにくい〜。凡人ならではの視点で「うわぁ〜!」と心を揺さぶられたポイントを、熱く語らせてください!この映画は、ただ美しいだけじゃない、人間の深奥に迫る物語でした。

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目次

血筋という呪縛と、才能という光のコントラスト

上方歌舞伎の名門、花井半二郎の実の息子として、将来を約束された御曹司・俊介(横浜流星)。

その血筋は時に重い鎖となり、彼を縛り付けます。

一方、兄弟子として俊介の前に立ちはだかる喜久雄(吉沢亮)。

任侠の一門に生まれた彼は血筋を持たぬ者として、ただひたすらに自身の才能を磨き、芸を追求します。

この二人の対比は、まさに「血筋」と「才能」という本作のテーマを象徴していました。

俊介は「持てる者」としての苦悩を、喜久雄は「持たざる者」としての渇望を。

喜久雄が舞台直前に震えながら俊介に向けて吐露したこのセリフが象徴的。

「守ってくれる血ぃが、俺にはないねん。」

この時の俊介の返しが

「芸が、あるやないか。」

このやりとり、みている凡人のわたしも喉元が焼けるような苦しい感覚に陥りました。

血筋の重さ、才能への執念、そして互いを認め合う二人の業が、この数秒間に凝縮されていましたね。

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手放したもの、そして得たもの

しかし、この映画で私が最も心を揺さぶられたのは、彼らが芸道を極めるために「手放したもの」の大きさです。

家族との時間、友人との関係、世間からの評価、そして時には自身の尊厳さえも手放す。

彼らは、歌舞伎という唯一無二の「国宝」を手に入れるために、あらゆるものを差し出してきたように見えました。

何かを極めるということは、自分に付帯する諸々を捨て、むき身の自分をひたすら研磨するしかない。

まさに悪魔との取引なんでしょう。

キレイはキレイの中から生まれるのではなく、どろどろの葛藤の中から、犠牲の中から生まれてくる、、

それをひたすら求めて歩くしかない生き方、なんと業が深いことかと考えさせられました。

「喪失と引き換えの歓喜」という究極の境地

喜久雄がたどり着いた「国宝」の境地。

それは、単なる栄誉や名声ではなく、あらゆるものを手放し、人からそしられ、それでもなお芸道を追求し続けた者だけに見える一筋の美しい光ではないでしょうか。

すべてを捧げた先にだけ存在する、究極の至福。

ラスト「鷺娘」を演じる喜久雄が「ああ、キレイやなぁ。。」というセリフは、まさに「喪失と引き換えの歓喜」の結晶なのではないかと思いました。。

高め合うふたりの演技は、まさに「ガラスの仮面」!

芸道に取り憑かれた俊介と喜久雄が芸でしのぎを削る姿はくるおしく切ない。

たとえば病を押して俊介が演じる劇中劇「曽根崎心中」。

かつては喜久雄が演じたお初を俊介が、喜久雄が徳兵衛としてふたりが演技でぶつかり合います。

病が現れているお初(俊介)の足首に喜久雄(徳兵衛)が愛おしそうに喉を押し当てるシーンはじわっと涙が滲み出てしまいました。

芸にかけるふたりのすさまじいやりとりはそのまま横浜流星と吉沢亮の一騎打ちとなっていました。

そして思い出したのが不屈の名作「ガラスの仮面」。

設定といい、二人にふりかかる試練といい、この映画まるでガラスの仮面の北島マヤと姫川亜弓みたい、、と思ったのはわたしだけでしょうか。(笑)

凡人が興奮した、劇中劇の歌舞伎シーン

オバハンはやっぱりキレイなものが観たいんですよ。

垂涎だったのがやはり「二人藤娘」と「二人道成寺」です。

グリコ

うつくしー♡

横浜流星くんの女形はなぜか中村七之助さんに見えてしまいその美しさに「はうぅ〜」♡♡

すごくお得感があったのが芝居の裏から見た衣装の引き抜きシーン。

観客の眼前で一瞬にして衣装を変化させるあの仕掛け、映画で「あ〜、こうやってシュッと変わるんだ〜!」とわかって、ものすごく納得しました!

これから観ようと思われている方も、ぜひこの引き抜きシーンは楽しみにしていてほしいです。

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重石になった寺島しのぶと田中泯の存在

実際梨園の中で育った寺島しのぶさんはその中の事情をわかっているだけに、いい意味で映画の重石になっていました。

家の中で着ている紬の着物のシュッシュッという衣擦れの音までが、物語の深みを増しているようでした。

また出ているだけで「すごっ!!」となったのが田中泯さんです。

わたしは初めて映画でその姿を拝見したのが「メゾン・ド・ヒミコ」でした。

とにかくどんな役でも着こなす、というか化けるので舞踏家ということを忘れてしまいます。

田中泯さんは劇中で『万菊』という人間国宝役を演じています。

万菊が喜久雄を呼び寄せた、うらぶれたアパートの場面でのセリフ

田中泯さんがちょいちょいと手招きしながら言うんです。

「ここには美しいものがひとつもないだろ? 妙に落ち着くんだよ。なんだか、ほっとすんのよ。もういいんだよって、誰かに、やっと言ってもらえたみたいでさ。」

このシーンでは万菊という人物が、人間国宝としての虚飾を脱ぎ捨て、“人間”としての「ただ在る」ことへの安堵感が出ています。

わたしだったら一間のガラーンとした部屋(それも古い畳の日本間)に布団で寝ているのはちょっと嫌かも。。(汗)

女形という設定の声、ふるまい、老いの演技にただただのみこまれてしまいました。

グリコ

田中泯さん素晴らしい♡

書き出したらキリがないほど他の役者さんも、この映画ガチンコ勝負で臨んでいるのが伝わりました。

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吉沢亮もいいけれどあえて引いた横浜流星の演技もひかる

世間は吉澤君絶賛の嵐で、もちろん素晴らしかったです。

でも吉沢君を引き立てるように「梨園のボンボン」としてあえて抑え気味に演技をした横浜流星君の演技もさすがでした。

ふたりとも「体幹」がしっかりしてて劇中の歌舞伎演目もブレずに見事に演じていました。

歌舞伎役者ではない人間が歌舞伎役者の演技をしてその演目を演じるというのはすごいプレッシャーだったはず。

にもかかわらず、劇中の演目も魅せてしまうのですから、吉沢亮・横浜流星という役者さんはとんでもない人たちだな、って思います。

歌舞伎って実はハードな肉体労働なんだなってことも、この映画で改めて理解できました。

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原作と現役歌舞伎役者の声が気になる!

この映画、原作があることを後から知りました。

映画との違いや映画で端折られたところを確認する上で読んでみたいと思います。

実際現役の歌舞伎役者さんは映画をみてどう思われているんでしょう?

”ココが良かった”、とか、”部屋子はまさにそうなんだよ、結局は血筋なわけよ”なんていう生の声が聞きたくなりましたよ。

本日は凡人オバハンの映画レビュー、

グリコ

劇中劇だけでも眼福ですから〜♡

是非尿意対策をして映画館に足を運んでください。

今日も最後までお読みくださりありがとうございました。

役者さんっていろいろな人の人生を擬似体験できていいなぁ〜と裏にある努力をすっ飛ばして思ってしまったグリコでした。

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