お盆も終わったので盆飾りをしまって、通常運行に戻したグリコール・グリコです。一旦ここまですればOKかな?と片付け停滞期に入っていましたが、本を再び片付け始めて分かったことがありました。
本の見直しが出来たのは二つのきっかけがあった
一つはブロ友LEE様からの情報です。
本を手放すきっかけ1 国会図書館(NDL)で個人登録して閲覧できることがわかった
LEE様は図書館司書の資格もお持ちなのでその辺の事情に明るい。
とても参考になりました。
LEE様の文章を引用させてもらうと
今回「個人向けデジタル化資料送信サービス」で公開されるようになったものは、これまで「図書館向けデジタル化資料送信サービス(略称:図書館送信)」に登録した大学図書館や公共図書館でしか閲覧できなかった『絶版等の理由で入手が困難なもの』ということです。
B-type NDLの資料をネット経由で利用。から引用抜粋
この『絶版等の理由で入手が困難なもの』、これが本を手放せない主な原因の一つでした。
どうしても見たい、読みたいけど、、巷にはもうない、、その時のために持っていたい。
安心を得るための保険みたいなものでしょうか。。
けれど国会図書館に足を運ばなくても個人登録もできてなんなら資料も取り寄せられるとしたら持っている必要はそんなにないなぁ、、と思える様になりました。
早速娘に”国立国会図書館(NDL)「個人向けデジタル化資料送信サービス」があるんだって”と言ったら速攻で読みたい本を探して”ここにあった!”と小躍りしていました。
著作権が切れたものは青空文庫に上がっているものの、もうちょっと掘り下げて調べたい時は利用させてもらおうと思います。
NDLにいけばある&なんならデジタルでも読める!
これで昔の本も後腐れなく手放すことができました。LEE様ありがとう!
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本を手放すきっかけ2 手放すと出会えないかもという不安そして所有欲
自分のこころを覗いてみると、絶版本を手放すと2度と出会えないかも、という不安がまず一つ。
同時に単純に”持っていたい”という所有欲から成り立っていることがわかりました。
その所有欲はすごく好き〜まぁ有ると良いかな〜レベルのものまで玉石混淆です。
ここで選抜筋を鍛える意味でも昭和の漫画を抜いたのですが↓
まだまだ行けました。
時間の経過とともに「確実に卒業したのに居座っていたものがあった」のです。
もう、持っていたいだけ〜。(笑)
そのような自分の心の変化も分かったので、「卒業=終わったこと」と意識を切り替える事が出来ました。
で、抜いたモノがキャッチの画像になっています。
資源ゴミとして潔く出す事が出来ました。
これは本に執着していたわたしにとってかなりの変化でした。
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片付けは至ってシンプル、終わったことに清々とケリをつけていくことだけ
自分でも自覚がなかったのですが、本に関しても「その役目を果たした本」というものが本部屋を占領していました。
好きなんだけど、もう興味が他に逸れて、ただ所有していたいから持っていただけ。
あちゃ〜ですね。
終わったことを自覚してケリをつけていけば、本部屋もうまく循環していくでしょう。
今後はとりあえずハイブリットで進めていきます。
紙をめくってでも読みたい本と、電子で読めば十分な本。
終わったことにケリをつける、なんかすごくシンプルなことなんですが、本に関してはなかなか出来なかったです。(反省)
今は空きが増えた本棚をの数が増えるたび、ちょっと嬉しくなります。
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おまけの話 終わったことにケリをつけた初盆の白提灯処分
終わったことにいつまでも固執しているからモノが家に居座るのです。
初盆の白提灯は処分の仕方が分からなかったのでじいじの分がいつまでも家にありましたが義理母つうさんの分と一緒に処分できました。
箱は潰して資源ごみへ。
白提灯にはお清めの塩を撒いて新聞紙に包み、可燃ごみへ。
ありがとう、さらば!
こうやって一つひとつお役目が終わったものはその時点でお別れすれば良いのです。
人生を複雑にしているのは自分の感情。
「終わったこと」に目を向けて消耗しないで「始まること」にパワーを使おう、そう思いましたよ〜。
本日は国会図書館のレファレンスサービスを知る事が出来て、本を手放す事が出来た、片付けは終わった事にケリをつけるだけで良かった、、というお話でした。
本に一過言ある方は是非こちらから本登録を〜♪
一生片付けを続けそうですが、暮らしが最適化されていく方が心地よいです。
これからも見直すぞ!うん。
本日も最後までお読みくださりありがとうございましたV
コメント
コメント一覧 (2件)
グリコさん
初盆お疲れさまでした。こちらで白い提灯を見てグリコさんのことを思い出しながらしばらく佇んでました。
本、整理されたのですね。奇遇ですけど私は料理教室に通っていたころのレシピを少し処分しました。パンはもう絶対作らないので躊躇なく処分しました。そして10年にわたって折にふれて通ってきた教室のレシピも選び抜きました。うちの食事形態が変わってきたことと、作るものは頭と言うか体に入っているので。先生に「先生は太陽。私は惑星。軌道を回ってるので、時々太陽に近づいてその時に太陽は惑星が見えるかもしれないですけど、惑星はいつも太陽、見てますから。」と言うと笑われてました。
こちらで大きな火災があり、てんぷらの凝固剤が取り上げられた時、10年前なのに、揚げ物をした後火を止めてすぐに凝固剤を振り入れてた先生の姿が浮かびました。私も楽しかった思い出としてレシピを取っておきたかったんだと思います。でも多分、教室で学んだことってレシピだけじゃないと思って気持ちが固まりました。
こんばんわ、もず様。
結局のところ究極残るのは「心の中」に残るのですよね。。
コメントを拝読しながらなんかじんわりきました〜。
モノは記憶を引き出すトリガー。
私たちはこれからも片付けを多分続けると思うのですが、
そうやって時に過去の事を振り返りながら
自分の胸の内も整理し自らを納得させていくんだと思います。
頭に、からだに入ったレシピは手放しても大丈夫ですね。
わたしもそういう筋の入ったレシピを持ちたいなぁ(あたまのなかにIN)。