人生の後半生に向けてからだに投資した話の2つ目です。実は私、2013年にレーシック手術を受けて『見えない』を手放しました。今回はレーシックいいよ、という話ではなくこういう経過を経てレーシックに踏み切ったという話です。
生まれ変わったら目がよく見える何かになりたいと常々思っていた私
私は小学生の低学年の段階で既に0.5という視力でした。
実父と散歩に行った時など
”今日はいい天気だから遠くにほら、〇〇島が見えるよ”と指をさされても景色がぼや〜っとして全然見えませんでした。
でも見えるフリをして”ほんとだー”なんて言っていました。
心の中で本当に遠くの島なんて見えるのかな?と疑っていたほどです。
入学後初めての視力検査、実際自分の番が来たら想像以上に答えられない。
上の大きいランドルト環しか答えられず、子供心にショックでした。
その後もどんどん視力が下がり、0.2と0.3に。
小学校高学年にはメガネをかけることになるのですが、とっても嫌でした。
ガリ勉と言われるほど頭も良くないのにメガネ。
ドッジボールが顔面に当たったらとんでもないことになるメガネ。
あー憂鬱メガネ。。
なんの罰ゲーム?
本当にメガネが嫌で嫌で生まれ変わったら絶対目がいい何かになりたい!と心底思いました。
メガネが嫌だったので、高校生までは通学は裸眼、授業中だけメガネをかけるという姑息な手を使っていました。
その頃視力は0.06と0.04というド近眼。ほぼ感覚で歩いていました。
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コンタクトレンズとの出会い
ハードコンタクトレンズは全く合わず
歳の離れている従姉妹がコンタクトレンズをしていて、アレをつければよく見えるんだ!と、どうしてもしたくてコンタクトレンズを作ったのが中学三年生の時です。
当時はハードレンズしか有りませんでした。
しかしハードレンズを入れると眩しくて涙が止まらずまっすぐ前を見ることすらできません。
そして猛烈な遺物感に目が耐えられず、玉砕。
しばし憂鬱な瓶底メガネ生活が続きました。
あー!メガネ嫌だ!何もない状態で景色をよく見たいよ!
ソフトコンタクトレンズとの出会い
時代が移り変わりソフトコンタクトレンズが登場し、やっと自分に合うレンズにも巡り合いしばらくはソフトコンタクトレンズ生活が続きました。
コンタクトレンズで世の中がよく見えるようになったものの、コンタクトレンズのケアは結構大変でした。
コンタクトレンズの洗浄液、保存液、ケースごと滅菌する装置などなど。
海外旅行の時はそれらをドッサリ入れての荷物作り。
そしてよく見えるコンタクトレンズでしたが、夕方になるとはやく家に帰ってコンタクトレンズを外してホッとしたい!とも思っていました。
よく見えて快適なんだけど、やっぱり目が疲れるんですよね。。。
しかも段々ソフトコンタクトレンズが目の油で曇りやすくなり、何回かメーカーを変えたりするというトラブルも起こりました。
ワンディタイプの使い捨てタイプが登場 ケアが楽に
ワンディタイプのコンタクトレンズが出た時は速攻で飛びつきました。
なんたってコンタクトレンズのケアが不要です。
開封して目に装着、寝る前に外して捨てるだけですから。
なんて楽ちんなんだV
しかしある時やんわりストップがかかりました。
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コンタクトレンズの長年の利用で目に酸素が届きにくくなっていた
今でこそ『生感覚』のレンズ、とか『酸素透過率の高い』ハイスペックコンタクトレンズが多く出回っていますが私が使用していた時はその性能はまだまだでした。
そして20年近くコンタクトレンズを使用したことで、目に酸素が届きにくい状態になっており、眼科医から出来ればコンタクトレンズは使用しないか又は短時間でやめる方がいいと指導を受けました。
それでもメガネ無しでものが見られる魅力は捨てられずコンタクトレンズを続けるが老眼が忍び寄る
仕事をしていて夕方になるとどうも目が疲れるし見にくい。
当初はそれが老眼だということがわからず度が合わなくなってきたのかな、、と思い眼科に行くと老眼が始まっているとのこと。
『近視は老眼になると良く見えるようになる』なんて聞いてもいたので期待していたのですが、結局遠くも近くも見えづらくなって正直凹みました。
自分の周りでポツポツ広がっていたレーシック
レーシック。
聞いてはいたのですがやはりリスク(手術の失敗・ドライアイになりやすい等)の方が怖く、眼の手術ということに二の足を踏んでいました。
しかし同じ職場の長年メガネっ子だった友人が
と報告してくれて心が揺らぎました。
その頃は前職を辞め、腰掛バイトをしていた時期で2011年の東日本大震災にも遭遇していました。
災害があった時コンタクトレンズを持って逃げられるか不安。それに寝ている時地震が起こってメガネが探せなかったらどうしよう。。。
見えないことの不安がドド〜ッと我が身に押し寄せてきました。
同居・介護も始まりメガネで入浴介助の難しさを痛感
バイトもやめて、外にもあまり出なくなったのでメガネで過ごすことも多くなりました。
時を同じくして震災以降婚家の両親と同居を始め、義理父が亡くなった後義理母が脳梗塞になり、入浴介助が始まりました。
しかし困ったのが入浴介助です。
メガネ無しではド近眼の私は義理母が肌色の塊くらいにしか見えません。
眼鏡をかけて一緒に入浴をするもののメガネが曇る。。
うーん、、困った。。。
レーシックを決断。ついでに老眼対策でカムラインレーも入れちゃおうと思うが土壇場でやめる
メガネっ子の友人からレーシックを紹介されてから二年後の2013年、ついにレーシック手術に踏み切ります。
たしか夫には事後報告だったように思います。(汗)
阪神淡路大震災の時も、困ったのがお年寄りの入れ歯とメガネだったと聞いています。
何かあった時にからだ一つでなんとか過ごせる方が良い。
その気持ちが大きくなりました。
レーシックをするにあたり、リスクが心配だったので一番高い値段のコースにしました。
当時は退職金が入った事も有り、歯と同様『後半生のために自分のからだに投資する』意味合いも込めてドーンと自分に投資。
(さっき調べたら私がレーシック手術を受けた時よりかなり値段が下がっていて改めてびっくりした次第です。ポピュラーな手術になっているんですね。)
レーシックって今思うに、先生の腕の良さというよりは、手術で使用する機械の性能の良さの差だと個人的には思っています。
最初は老眼治療のカムラインレーというものを眼の中に入れる事もノリで承諾したのですが、後々眼の中に異物を入れる恐ろしさの方が優ってしまい、土壇場でキャンセル。
ただのレーシックで止めておきました。
あ、もちろん医療費控除もしっかり出して戻りも確保しましたよ。
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レーシック手術、裸眼で日常を過ごせる楽さに感動。でもやはり老眼は進んだ
朝起きて裸眼で全てのものがハッキリ見えるこの素晴らしさ。
よく見えるようになって暫くは何故かメガネを外す仕草をしたり、夕方になると「コンタクトを外さなきゃ」と思ってあ、いいんだ、、と我に帰ったり(笑)。
見えない時間が長かったので見える自分に慣れるまでちょっと時間もかかりました。
お陰様で恐れていた大きな不具合もなく、免許更新時には眼鏡等使用の文字も消え、レーシック手術をして七年経ちました。
ただ、老眼は確実に進みました。
こうしてPCに向かう時はやはり老眼鏡はかけます。
メガネと完全に手が切れたわけではないのがやや残念なところですが、日常生活はメガネ無しで暮らせるのでこのくらいの不自由は受け入れることにしています。
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40過ぎたら自分のからだに投資も必要ということ
今回の話で私が言いたいのはレーシックは良いですよ、ということではなく、
ということです。
眼に関しては技術が進んでICLという眼内レンズも普及し、遠近両用のレンズもあるそうです。
医療もどんどん進んでいるので更にこの先もっと良い技術も出てくることでしょう。
からだのストレスを抱えたままの自分でいるか、臆せずチャレンジして『自分最適化』を図るか。
個人の裁量に任されるところですがからだが動くうちに色々やってもいいんじゃないかな、と、私個人は思っています。
もちろん歯も無事で眼もよく見える方は今まで以上にご自分のからだを労って慈しんで欲しいと思います。
だって自前のからだが一番ランニングコストがかかりませんからね。
50からのからだの話はいろいろと。
こんな事も突然起こりました↓。
次回はからだへの投資3つ目の話になります。段々楽ができる方向へシフトするグリコール・グリコです。お楽しみに?!
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