なんでも無駄なく計画を立ててそれを実行する、、のが充実した生き方だーなんて思っていました。けれど『生き死に』は自分の思い通りにはなりません。ちょっと遅れてきた悲しみにガツンとやられました。
義理母死後、割と感情が乱れることなく淡々としていた
話をして涙ぐむ人を見てじわっと目が潤むことはあっても、義理母の死とその後のあれこれは割と感情が乱れることなく、鬼嫁らしく淡々としていたと思います。
けれど、、
義理母死後に届いたファンデーション
生活クラブを3月いっぱいお休みをしていたのですが、義理母が亡くなる前に頼んだファンデーションが届きました。
夫シンジさんに生活クラブの名義替えの申込書が来たこと、ファンデーションが届いたことを話し始めるとボロボロ涙が出て途中言葉にならず。
お義理母さんのファンデーションが届いたよ、本人 まだまだ 生き る気で い、いたんだよね まさか し、死ぬ なんて おもって なかったから、、ファンデーション 買っちゃってて さ
ここで初めて義理母の『死』を認識したというか、自分の感情が追いついてきた感じでした。
俗にいう『涙が止まりません』モードに入りました。
義理母は口では”嫌になっちゃう””もう生きていてもしょうがない”等々ネガティブ砲を炸裂させていた一方で、実はまだまだディにも通う気でいたし、春のリハ友とのお出かけも楽しみにしていたことが『ファンデーション』から伝わりました。
まさか自分が死ぬとは思いもよらなかったのかもしれないです。
最後まで『身だしなみ』のことに気を遣っていたそのグッツが死後届くという皮肉。
先のことを思い描いても人間の『生き死に』は自分の思い通りにはならないのだな、、と思いました。
この日は絶対的無常感に打ちひしがれて結構落ち込みました。。
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哀しみをスルーしないようにしようと思う。。
長期展望とか予定とか大きなスパンのものを立てたからといってそれがその通りになるかというと『突然の〇〇』が起こるのが人生でもありますね。
『突然の事故』とか『突然の災害』とか『突然の国家存亡の危機』とか。
まだまだ、、と思っていたのにあっけなくあの世を去ることもある。
逆にそろそろだ、と思ってはいてもやはり『死』は突然やってくるし、その後のバタバタがあるので『死を悼む』ところまで心が追いついていないです。
私はちょっとキチキチにネジを巻きすぎる傾向があるので、ほどほどにしながら『今日』に焦点を当て生きていこう、、と今回のファンデーションで思いを新たにしました。
『今が大切』と口ではいっていましたが、この瞬間瞬間が大切で、尊いものなんだな、と身に沁みました。
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パラパラ追加弔問があるたびに『追い哀惜』が押し寄せる
先日もケアマネさんが弔問に来られました。
思い出話をちょろっとして新婚旅行のアルバムから数枚抜いた義理両親の写真も見せることが出来ました。
リハ友やケアマネさん、古くからの知り合いからパラパラと弔問とお花が届き、みなさんの心の中に義理母つうさんが居て良かったな、と思うと同時になんだか突発的にボロッと涙がこぼれます。
もちろんわたしと義理母の間がいつも良いことばかりであったわけではありません。
それでもこうしてお別れすると追いかつおならぬ追い哀惜の念が突発的にやってきます。
こればかりはもう『日にち薬』ですね。
現在義理母の部屋はスターさんの楽屋の様に花でいっぱいです。
なんだかしんみりな話になってしまいましたが、こうやって揺れながらこころの中の振り子の揺れがだんだん小さくなっていくのだろうな、と感じています。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
鬼の目にも泪、、のグリコール・グリコでした。。
揺れる乙女心(乙女じゃないけど)!
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