カフェで隣の席のシニアの大きな声、クリーニングのミス…昔ならイライライラ!なのに、なぜかあまり腹が立たなくなった私。それは、年を重ねて手に入れた、ある「大いなる諦め」と「客観視」でした。
振り返ると、若い頃は本当に「怒りの沸点」が低かったな、と思えます。
まるでからだじゅうに発火装置がついて引火するが如く、些細なことで怒っていました。
ところが、最近になって気がついたんです。
カフェの隣席が賑やかでも、「声デカ!でも耳が遠いのかな、」と受け流せる。
クリーニングのミスがあっても、「あぁ〜、見落としたか、ま人間がやることは完璧じゃないからね」で終わる。
世間では「年を取るとキレやすくなる」なんて言われますが、私は逆でした。
今日は、この「怒りからの卒業」について、自己洞察から得たことを話したいと思います。
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怒りが消えた、人生の知恵という名の2つの発見
怒って突っかかっていたからこそ、失敗も多かったわたし。
けれど今は穏やかな残り火のように。
この変容はどうしてなのか?
じっくり考えて、二つの大きな理由に辿り着きました。
1「大抵のことは、私にとってどうでもいい」と気づいたから
私たちはつい、目の前の小さな問題に人生のエネルギーを注ぎがちです。
でも、よーく考えてみると、、
隣の席の話し声が、わたしの健康を害すか?
はたまた、クリーニングの小さな汚れが、わたしの人生を根本から変えるか?
と考えれば、、

答えはNOです。
そう考えると、
若い頃は「自分のものさし」が絶対正義。
全てにコントロールして然るべき、くらいに思っていたので、少しでも「自分のものさし」からずれると腹が立ちました。
でも人生の後半に入り、少しずつ「自分のものさし」が絶対正義でもない事が分かり始めました。
そんな自己矯正を繰り返すうちに
「ああ、ほとんどのことは、私の人生において緊急でもなければ、重要でもない」
という事実に突き当たりました。
この大いなる諦め(手放し)によって、心のコップから無駄な水が溢れなくなり、いつも静かで満たされた状態を保てるようになっていったのです。
夫との関係性が穏やかになったのも自分の絶対正義のものさしを過剰に振り回さなくなったから。
(もちろん、悟りを開いてないのでさざなみは立ちますよ!)
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2「不当な扱いをされている」という”認知の歪み”が消えたから
これが最も本質的な変化かもしれません。
若い頃の私は、すべての出来事を「私に対する攻撃」と無意識に捉えていました。
- 「あの人が大声なのは、私に配慮がないからだ」
- 「この汚れは、私のものをいい加減に扱ったせいだ」
つまり、「わたし」という自己中心的な防衛意識が、すべての感情のフィルターになっていたのです。
しかし、年を重ねて視野が広がり、客観視ができるようになってくると、
- 隣席の人は、ただ単に声が大きい体質かもしれない。
- クリーニング店の人は、人手不足で疲れていたのかもしれない。
と、感じる景色が全く変わって来ます。
そこに私を貶めようという悪意は、ほとんど存在しないのです。
あるのは、”たまたまそういう事象に遭遇した”という事実だけです。
出来事と自分自身を切り離す。
「これは単なる出来事だ」と冷静に捉えることができるようになると、「不当な扱いを受けている」という被害者意識は次第になくなっていきました。
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穏やかさこそ、シニア世代の最高の財産
こんなことを言っていても数年後には脳機能の衰えで「怒りっぽくなる」かもしれません(笑)。
先のことは全くわからないものの、、
今、自分の変容を感じる部分は
「ま、いいか」
「んなこと、どーでもいいわい」
「こんな事情もあったのかも」
と、やり過ごす「知恵」がついたことなのかな、と思っています。
このような一連の心の動きを世間では「こころの成熟」というのかもしれないですね。
せっかくの人生後半生です。
自分の見る景色を変えて、穏やかさという最高の財産を手にしてみませんか。
本日は怒る事が少なくなって来た自分を振り返ってみたお話、
もし今、小さなことでイライラしている方がいたら、「それは本当に自分にとって重要なことかな?」と、ご自身に優しく問いかけてみてくださいな。
きっと、どうでも良い瑣末なことばかりだったことに気づくはず。
今週も気持ち良い週のスタートを切りたいと思うグリコです。
本日も最後までお読みくださり、ありがとうございました!
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