本日は「敬老の日」。両方の親がいるときは、ここぞとばかり「敬老の日」を祝いましたが前期高齢者のわたしもいよいよ「祝われる側に!」
数値としての「高齢者」
敬老の日ですね。
昨日からテレビや新聞では、「65歳以上の高齢者人口が過去最高を更新しました」などと、まじめな顔をしたアナウンサーが統計データを読み上げています。
総務省が公表した人口推計(9月15日時点)によると、敬老の日に合わせた日本の65歳以上の高齢者人口は3,624万人で、総人口に占める割合は29.6%。
グリコうむむ、、わたしも3,624万人のひとりかぁ。。
そんなデータをぼんやり眺めながら、ふと胸のあたりがすーすーと寒くなり、しょぼんとした気持ちになりました。
あぁ、私もついに、あの「膨大な数値」のなかのひとりとして、きっちりカウントされているわけですね。
分類と中身のチグハグさ
しかし、自分自身の感覚といえば、まったくもって頼りないものです。
頭のなかは高校生の頃から大して進化しておらず、中身はあの頃の未熟な人間のまま。
それなのに、世間からはいつの間にか「敬老される側」の棚に分類されています。このギャップには、どうにも座りの悪さを感じてしまうのです。
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瞬間移動する心と、昔の高齢者
とくに同じ土台を共有している友と会ったり話したりしていると、時間の感覚はあっさり崩壊します。
十代の頃に一緒に笑った漫画のくだりや、当時の空気感という共通の土台がありますから、会話がはじまった瞬間に「あの頃」へタイムスリップしてしまうのですね。
気持ちだけは、一瞬で青春時代に瞬間移動しています。
ふと思うのですが、私たちが子どもだった頃の「おじいちゃん、おばあちゃん」は、もっとちゃんとお年寄りらしかった気がします。
それは昔の人たちが老けていたというよりは、社会の側に「高齢者として振る舞うための枠組み」がしっかり用意されていたからではないでしょうか。
定年を迎え、家で孫の面倒を見て、お茶を飲んで穏やかに過ごす……という、絵に描いたような「老後の型」があったのですね。
いまは、その枠組み自体がすっかり崩れてしまいました。
定年を過ぎても働き続ける人は多いですし、ライフスタイルも人それぞれです。
誰もが「現役」のまま社会に放り出されているようなもので、だからこそ、みんな意識だけはいつまでも若々しいままでいられるのかもしれません。
バスの中で突きつけられる現実
ですが、心は高校生のつもりで調子に乗っていると、体の方が容赦なくリアリティを突きつけてきます。
このあいだも、バスに乗ったときのことです。
運賃箱の読み取り機にスマホをかざそうとして、ほんの少し、本当にほんの少しだけ体を捻りました。
その瞬間――
「……っ!!」
腰の奥で、イナズマが走ったような激痛がガツンと襲ってきました。
グリコはぅう。。。。(悶絶、泣)
以前圧迫骨折をやって以来、私の腰はすっかりナイフの刃渡りのように繊細になってしまっています。
スポーツをやろうとか、重い物を持とうとか身構えているときなら、
下腹に力を入れてインナーマッスルをキュッとあげて、、なんて予防もできるのですが、、
バスでスマホをタッチするだけの「ふとした動作」で来るのですから、防ぎようがありません。
そういう時に限って膝に力も入らず「膝抜け」も起こるので、ステップを一段上がるのも実は大変。。
車内でひとり、声も出せずに悶絶しながら、「心は青春でも、体はしっかり年相応、いやそれ以上だな」と痛感させられました。
全然笑えない話なのですが、自分の間抜けさに思わず苦笑してしまいます。
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枠にはまらず生きる
祝われる側になった戸惑いは消えませんし、体はあちこちガタが来ています。
それでも、せっかく「高齢者の型」がなくなった時代に生きているのですから、無理に老人ぶる必要もないのだろうと思います。
頭のなかは高校生のまま、バスに乗るときは腰に細心の注意を払い、痛い目を見ながらもボチボチやっていく。
そんなアンバランスな自分を面白がりながら過ごすのも、まあ悪くないかなと思っています。
ただ無理は禁物。
今日も南関東はこれから台風の暴風域に飲み込まれるので、ジムに出かけるのはあきらめて、しんねり自宅でおとなしくしようと思っています。
雨の日出かけて転倒、骨折は笑えませんからね。
本日も祝日にも関わらず、ブログを読みに来てくれてありがとうございます。
敬老の日に祝われる側になったグリコでした〜。



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